2012年6月 7日 (木曜日)

放射線影響の真実〈鈴木崇彦先生講演会〉

Xmg_2419おなはま海遊祭の委員会で放射線に関する勉強会が行われました。一般公開しなかったのがもったいないぐらい、明快で分かりやすいご講演でした。講師は東大大学院・疾患生命工学センター放射線分子医学部門の講師である鈴木崇彦(たかひこ)先生。

海遊祭でなぜ放射線?と思われるかもしれませんが、昨年中止になった海遊祭を今年再開するにあたり、いくつかの問題をクリアしなければなりませんでした。その1つが、来場される方々の放射線への懸念。海遊祭は海に親しむイベントで、アクアマリンパークの海上でジェットスキーやバナナボートなどの体験乗船を楽しんでもらうのがメインです。放射線を心配して、海水に触れることに非難の声が出るかもしれない。では、今の小名浜の海の状況をどう考えたらいいのだろうか、という中で、わざわざ東大の先生をお呼びしたのでした。

講演の内容をかいつまんでご紹介します。

一番大事なことは、放射線医学の専門家の共通した見方は、今回の原発事故で福島県民のガンが増えることは考えられない、ということです。その論拠は次の通りです。

  • 11060802_2胸のX線検診は1回に50μSVの放射線を受ける。昔は300μSVだった。それは子供でも同じ。この検診によって発ガン率が上がったという結果は見られない。
  • 世界には自然の放射線が高い地域がある。ブラジルのカラバリ、チベットのラサ、中国などにもある。ガラバリは大地などから来る放射線が年間10mSV。これらの地域が食生活の似通った他の地域より発ガン率が高いという結果はない。
  • 宇宙ステーションに半年滞在した宇宙飛行士の被曝線量は180mSV(1時間あたり41.6μSV)。宇宙飛行士に放射線による健康の影響は出ていない。

放射線医学の専門家の一致した見方は、福島原発の事故は放射線の影響という意味では大事に至らなくてよかったね、ということだそうです。ガンリスクが高まる被曝線量は100mSVを超えた場合で、それ以下であればリスクは高まらないというのです。

11060808_3私が非常に共感したのはこの図です。もちろん低線量とはいえ、放射線被曝のリスクがまったくないとは言い切れない。しかしそれは、喫煙、飲酒、野菜不足、ストレスといった従来の発ガンリスクに新たに「放射線」という要素が加わったということで、個人個人のリスクの総和がどれくらいかが問題なのだ、ということです。つまり、放射線だけにいくら注意しても、その他の要素が大きければガンのリスクはなくなっていないのです。驚いたことに、発ガンリスクの中には薬やサプリメントも含まれるとのこと。そういう意味では、いたずらに放射線のみを心配するのではなく、様々な生活の要素を全体として見ることが必要だということになります。

Xmg_2424今回初めて聞いたのは、放射線被曝は直接ガンを発生させるのではない、ということです。放射線の影響というのは、他の要因によって起こるガンを助長することにあるそうです。つまり、喫煙、飲酒等によってガンになるリスクを高めてしまうということで、そうした発ガンリスクがなければ、放射線が直接的にガンを引き起こすことはないということです。放射線がDNAを傷つける、ということが言われますが、そのことによる発ガンというのはきわめて少ないということでした。

現在、日本社会で起こっていることの問題は、いたずらに危険をあおる専門家の存在だと言います。子供は大人の1.5~2倍、放射線の影響を受けやすいと言われていますが、子供にとって最も影響が大きいのは「苦痛」を受けること。そこには肉体的苦痛だけではなく精神的苦痛も含まれます。学校の成績が悪い、ということを苦痛に感じると、そこから非行や閉じこもりという問題が起こる場合がある。放射線の影響を懸念して避難した場合、子供が納得していないと友達から引き離されることを苦痛と感じる恐れがあり、その影響の方が大きいというのです。

Xmg_2432鈴木先生自身は、先生のこうした発言によって問題が起こった場合、その責任を取る覚悟があると言われます。では、危険をあおる専門家の言葉で精神的なストレスを感じ、それによって問題が起こった場合、彼らは責任を取る覚悟があるのだろうか、と問い掛けられました。そうした方々と議論をしてみたいとのことでしたが、応じてくれる方はいないのだそうです。

安心、安全は1人1人の考えであり、事実を事実としてとらえ、賢く生きることが必要だ、というのが締めの言葉でした。皆様はどうお考えになるでしょうか。

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2012年1月16日 (月曜日)

海洋汚染の現状<サイエンスカフェ>

Xmg_0761_3いわきニュータウンの福島県水産会館で「第3回いわきサイエンス・カフェ~いわきの海と魚を語ろう~」が開催されました。いわき市の場合、陸上の空間線量はある程度落ち着いていますが、海がどうなっているのかずっと気になっていました。

Xmg_0763今回は福島県水産試験場の水野拓治水産資源部長が「水産物における放射性物質のモニタリング経過について」、築地市場・(株)神奈辰の栗竹俊夫社長が「築地市場から見たいわきの水産物について」お話をされました。レクチャーの後で質問等を付箋に書き、それに答える形で意見交換が行われました。参加者が研究機関、漁業関係者、流通加工関係者、観光関係者、行政、報道関係者といったその筋の方々のため、とても中身の濃い会で、勉強になりました。

以下、印象に残ったことを箇条書きで記します。

・水産試験場ではいわき海域と相双海域で、魚類、イカ・タコ、甲殻類、貝、海藻など142種類の魚介類のモニタリングを行っている。4月から12月の間で延べ1972回の検査を行い、暫定規制値を超えたのが130回(暫定規制値は放射性ヨウ素が2000Bq/㎏、放射性セシウム134と137の合計が500Bq/㎏)。
・規制値を超えたことのあるものは次の通り。アイナメ、イシガレイ、ウスメバル、ドンコ、キツネメバル、クロソイ、コウナゴ、コモンカスベ、シラス、シロメバル、スズキ、ナメタガレイ、ヒラメ、マコガレイ、ムラソイ、ホッキガイ、ムラサキイガイ、キタムラサキウニ、アラメ、ヒジキ、ワカメ。
Xmg_0766・いわき海域で平均値が高いのは順に、コウナゴ、シロメバル、クロソイ、ヒジキ、アイナメ、キタムラサキウニ、コモンカスベ。
・暫定規制値が現在の500Bqだと規制値を超えるものは21種だが、間もなく基準が100Bqに変更される予定で、その場合65種が規制値を超えてしまう。
・時系列で見ると、明確に低下傾向にあるのはシラス、ホッキガイ、アワビ、アラメ等で、大部分は低下傾向が見られない。
Xmg_0813・海域としては福島第一原発より南の海域で規制値を超える検体が多い。最も多い海域はいわき市北部の近海(水深50mまで)、次がいわき市南部の近海(同)。
・海水中の放射性物質は5月→10月で激減している。現在は不検出のところが多い。
・海底土壌は波と流れにより天然の除染がなされている。5月→11月で沿岸から沖合に放射性物質が移動している。水深10mのところでは半年で10分の1ほどになり、逆に100m以上のところは増加傾向。水深1000mのところまで運ばれて落ち着くのではないか。岸→水深100mに対し、水深100m→1000mでは3倍ぐらい時間がかかるのではないか。湖沼は流れがないのでとどまってしまう。
・底質(海底の表層)が違うと線量が違う。
・体の大きい魚に多く蓄積される等のデータはまだ見られない。
・築地では常磐ものの評価は非常に高い。特に原釜の穴子、常磐もののスズキ、マコガレイ、アイナメなど。
・小名浜の干物は有名。それに対する価値観は変わっていない。
・築地としては荷が来れば受け入れるが、値が付くかどうかは何とも言えない。
・築地は常磐ものの復活を待ち望んでいる。

Xmg_0793昨日はNHKスペシャルで「知られざる放射能汚染~海からの緊急報告~」が放送されましたが、この中でも沿岸流と呼ばれる潮の流れで放射性物質が南下し、Xmg_0804銚子沖まで至っていることが報じられていました。また、群馬県の湖の土壌が高線量であること、東京湾に注ぐ河川の河口が高線量で、河口から8㎞さかのぼったところがさらにその2倍の線量であるとのこと。海と湖沼の汚染は時々刻々移り変わっているようです。

Xmg_0809これらの話を総合すると、海水の線量は問題なくなっているが、海底の土壌に放射性物質が蓄積していることが問題ということですね。海底に住む魚や海藻が放射性物質を取り込み、食物連鎖で大きな魚にそれが取り込まれる。親から子へと放射性物質が遺伝することはないので、Xmg_0799土壌からの取り込みがなくなれば、次第に魚も浄化されてくるわけです。早く常磐ものの魚が日本中に流通できる日が来ることを願っています。

「いわきサイエンス・カフェ」は11月から始まっており、これまでに福島県漁連の野﨑哲会長、東京海洋大の石丸隆教授などがお話をされているようです。今後も正確で詳細な情報提供の場として継続していただきたいと思います。
http://www.city.iwaki.fukushima.jp/bukyoku/noseisuisanbu/suisanshinko/013043.html
http://www.city.iwaki.fukushima.jp/bukyoku/noseisuisanbu/suisanshinko/013100.html

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2011年10月16日 (日曜日)

3・11から今日まで(その2)

その1を書いたからにはその2を書かねばなりません。が、前回も書いたように、この数カ月の私のミッションは会社の新システム立ち上げで、8月21日の本稼働から約1カ月半は帰宅が24時から25時という毎日で、仕事に忙殺されておりました。と、まずは言い訳を書いた上で、前回の続きを。

Dsc110406_049この間、一番嬉しかったのは、4月6日、今春小学校を卒業した次女の卒業式(正式には「卒業証書を授与する会」)が開けたこと。震災で学校が休みになり、6年間の総まとめに充実感を高めていた娘と娘のクラスがブツリと寸断されてしまったのは、とても悲しかった。卒業式が延期になった時点で、1年かかっても必ず卒業式をやってあげよう、と心に誓いました。

小学校側の配慮で、それは私が無理な交渉をするまでもなく実現しました。中学校の入学式の日、午前中に入学式が行われ、その後、午後に小学校で卒業式。前後は逆になりましたし、中学校では中学生になった喜びに包まれ、小学校に来たらまた子供達が小学生に見えるという不思議な感覚でしたが、とにかく良かった。

Dsc110406_068校長先生から1人1人卒業証書をもらえたし、練習してきた「旅立ちの日に」もみんなで歌えた。私もPTA会長としてお祝いの言葉を述べさせてもらいました。

「地震のお陰で、一番大事な最後の7日間がなくなっちゃったね。学校に行くこと、勉強すること、友達と生活することは当たり前のことだと思ってたけど、当たり前じゃなかったと気がついたんじゃないかな。スイッチをつけたら電気がつくことも、蛇口をひねれば水が出ることも、コンビニでパンやおにぎりが買えることも、ガソリンスタンドでガソリンを入れて車に乗ることも、当たり前だと思ってたけど、当たり前じゃなかったんだ。たくさんの人たちがこういう便利な世の中を作ってきたんだよ。『世界がもし100人の村だったら』の中に、こんな一節があります。『もし冷蔵庫に食料があり着る服があり、頭の上に屋根があり寝る場所があるなら…あなたは世界の75%の人たちより裕福で恵まれています』。そう、みんなは世界の中で恵まれた25%にいるんだよ。こういう世の中を誰かが作ってくれた。みんなはこれから中学、高校、社会へと向かっていくけど、長い時間をかけて、社会のために自分は何が出来るか、社会の中で自分が果たせる役割は何かを見つけて欲しい。」
泣かないで話そうと思いましたが、話しながらやっぱり泣けてきました。

Dsc110409_0994月9日には、小名浜まちづくり市民会議が小名浜のサクラ開花宣言を行いました。津波をかぶったサクラの木が、今年も開花してくれました。

Dsc110416_1304月中旬には、魚市場近くで長年包装資材を販売していたHさん宅のがれき撤去のお手伝い。がれきって言ったって、ついこないだまでは商品だったり、生活用品だったりした品々。ただ捨てることしかできない虚しさがあります。うちの娘たちも手伝い、いくらかお役に立てたかな。

Dsc110501_0655月1日には、星薬科大学100周年記念事業で、小林研一郎さん指揮のコンサートが品川Dsc110528_016で行われました。このコンサート、震災が起こったということで急きょチャリティコンサートになり、小林さんなどのギャランティはいわき市内の被災した学校に楽器として寄贈され、演奏会の収益は同窓会からやはりDsc110927_076市内の被災校に理科の実験器具として寄贈されました。本当にありがたいことです。9月27日には同窓会の皆様がいわき市を訪れ、吉田教育長に目録を手渡しました。また、5月28日には100周年の記念式典が行われ、お招きを受けて出席しました。

Dsc110508_0045月8日には、アート&セラピー協会の主催で、タウンモールリスポにおいて「アトリエ・ツリーハウス」が行われました。自由に絵を描くことを通して、子供達の心を開放しようという事業です。

Dsc110511_0245月11日には、小名浜東小学校の子供達を励まそうと、家庭科の時間としてフルーツアートの体験が行われました。日本フルーツアートクリエイター協会の村上しずかさん、高梨由美さんが6年生に技を伝授してくださいました。いわき市出身の高梨さんのご縁で、9月23日にはNPO法人無形価値評価・認定センターとセベバレステロスゴルフクラブの主催で、セベにおいて「未来へのステップ」というイベントが行われました。フルーツアートやバルーンデコレーション、パターゴルフコンテストなどで子供達が楽しい一時を過ごす場をご提供いただきました。特別顧問のヤンキー先生こと義家弘介参議院議員も駆けつけて下さいました。

Dsc110911_013この他、小学校で放射能の除染作業やPTA広報紙で子供の心のケアに対するインタビュー記事の掲載など。わずかのことしか出来ませんでしたが、仕事の合間に少しだけ、地域の復興に関わる活動のお手伝いをした次第です。

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2011年8月 8日 (月曜日)

3・11から今日まで(その1)

会社でここ2年ほどの私の仕事は、社内の受発注等を行う新しいコンピュータシステムの導入です。私にソフトウェアの知識があるわけではないのですが、業務を行うために必要な仕組みをシステム会社にオーダーし、それを検証して稼働まで持っていく仕事をしています。それがいよいよ8月20日過ぎにスタートするため、まさに今が佳境です。

震災後しばらくの間は会社の業務も限りなく休止状態に近かったので、その間わずかながらボランティア的なことを行いましたが、数週間後に会社が全面再開となって以降は、津波で壊滅した南相馬市の原町営業所、原発20キロ圏内で入れなくなった楢葉町の富岡営業所などへの対応に始まり、さまざまにイレギュラーな業務が必要となったため、まちのことに関われる余裕がなくなってしまいました。

そんな中でわずかながら行ってきたことを、まとめてUPしてみたいと思います。

Dsc110313_093Dsc110317_014震災後、生活上大変だったのは水が出なかったこと。水道の復旧はいわき市水道局が相当に頑張ってくれました。が、それでも広域に及んだ復旧作業はいっぺんには片付かず、我が家は4月8日まで断水でした。近くの川に水を汲みに行ったり、給水車や給水所で給水するのが日課となりました。

ガソリンの欠乏も社会の大問題でした。スタンドはガソリンが入ったところは開店しますが、そうでないところはしまったまま。開いたところには開く前から自動車が列をなしました。何時間かかってもいいからアブラが欲しい、という人たちが押し寄せていたのです。私もいつもお世話になっているカネマン石油さんが開いたということで給油に行くと、知り合いたちが何人も手伝いをしていました。妻子を遠方に避難させ、自分はやることがないから手伝いをしているんだ、という人も。これは私もお手伝いしなきゃ、ということで2日ぐらい並んでいる車の誘導などをしました。

Dsc110319_038Dsc110319_020地元スーパーのマルト小名浜君ヶ塚店がオープンしたのが3月19日頃でしたか。我が家も早速買い出しに行きましたが、ざっと見たところこちらは1000人ほどの長蛇の列。いったいどれぐらいのものが置いてあるのか、我々の順番まで品物が残っているのかちょっと心配でしたが、思いの外潤沢に商品がありました。「お願い! 商品不足のため、飲料品(ペット/紙)・カップ袋ラーメン・納豆・牛乳の販売をお1人様1個までとさせて頂きます」の掲示。いやあ、このときはそれでもぜんっぜんありがたかった。スーパーでものが買えることがこれほど感動的だとは。

Dsc110320_050Dsc110320_052あるときは、支援物資の運搬作業の手伝いをしました。いわき青年会議所(JC)は3月11日から年間の事業計画をいったん白紙にし、震災対応に奔走することになりましたが、そのお手伝いで、小名浜港に到着した救援物資を平競輪場に運搬しました。自衛隊のたくさんの隊員の方々が運搬業務に当たっていました。

Dsc110320_062競輪場には、全国から続々と水、パン、毛布などなど、膨大な物資が毎日届いていました。ネットでは「物資はあるのに被災者に配れていない」ことを告発する映像が波紋を呼びましたが、何日かのタイムラグを置いて事態が改善される様を目の当たりにしました。「病院に薬がない!」「福祉施設に食料がない!」「避難所には菓子パンしか来ない!」などといった告発がメールで回ってきたりしましたが、私のところに届くまでに恐らく3-4日の時間が経過し、確認してみると「昨日まではそうだったよ」といったことが何度かありました。未曾有の震災で行政も地域の人々も右往左往しましたが、問題が指摘されると時々刻々解決に向かっていったのです。

Dsc110329_0838年前、いわき青年会議所を設立するためのいわき5JC統合に対して、先進地として大きなサポートをして下さった諏訪圏青年会議所の第2代理事長・松本浩成さんが、お仲間と救援物資を持って長野県からわざわざ来てくれたのが3月29日。この頃には日用品がある程度手に入るようになっていましたが、病院や福祉施設が必要としているものはまだ残っており、市内のそうした施設を何カ所か一緒に回りました。こうした善意には、本当にありがたい思いでいっぱいです。

Dsc110402_002_2いわきでの大学の同窓会の幹事をしている関係で、同窓会本部からも2度ほどお見舞いの電話を頂きました。また、他地区の同窓会から支援物資を頂き、それはいわき青年会議所にお渡ししました。

Dsc110321_080Dsc110321_089_2東京方面から炊き出しに駆けつけてくれる人たちもいました。ボランティアの方々は熱い思い1つでやって来ようとされるのですが、上記の通り、被災地の状況は時々刻々変化します。「今」、支援を必要としている人たちに橋渡しする地元の受け皿がないと、思いは空回りしかねません。ということで、行政からの要請を受け、炊き出しに来られる方々に場所を提供し、配布作業まで一緒に行いました。Dsc110321_098Dsc110321_112避難所となっていた小名浜市民会館の調理場をお借りし、避難者に配布すると共に、江名地区の避難所にもお持ちしました。私の中学、高校の同級生で、小乃せ食堂の嫡男にして磐城緑蔭高校教師の小野瀬鉄夫君も汁物作りに馳せ参じてくれました。

Dsc110324_146さらに、いわき市に寄せられた大量の支援物資を地域内の人々に配布する作業が一週間ぐらい続きました。実をいうとこれはなかなか複雑な思いに襲われました。というのは、おにぎりやあんパンなどが日々大量に届くのですが、届いたその日が賞味期限だったりして、行政はそうなると配ろうとしないのです。…ってことは、もしかして捨てちゃうの? せっかく善意で送ってくれたものを、まだ食べられるのに廃棄するなんて、それは人間としてやってはいけないことでしょう。せめてそうなる前に人々の手に渡そうと、おにぎり1万個を裁いた日もありましたし、賞味期限の切れたあんパンを1箱もらってきて周囲の人に配ったりしました。自宅の冷蔵庫であんパンを冷凍して、毎日1個ずつ食べ続けたりもしたなあ。もったいないといっても、これじゃ体を壊しそうですけどね。

この間、JCは細野原発担当相など政府首脳と懇談する場などもありましたが、そうした際に提案してくれとお願いしたのは、こうした大災害のときに国が主導権を持って復旧チームを自治体に送り込み、支援する側の自治体との調整なども含めて、過不足のない対応を取れる仕組み作りを行って欲しいということでした。

阪神大震災以来、大災害が起こったら、医療チームは即座に被災地入りする仕組みが出来上がっています。DMAT(ディーマット)と呼ばれるものがそれで、今回も震災当日には全国の医師たちが出動し、緊急医療体制を敷きました。巨大地震が起こればその瞬間に被災地では家屋が倒壊し、インフラが寸断され、住居、食料、医療、燃料等の支援が必要になります。どこの自治体でもマグニチュード6とか7クラスの地震は初めての経験となるので、間髪を入れず必要な対応を取れるところなどないはずです。で・す・が、日本全体として考えれば数年に1度はどこかで大地震は起こっているのであって、そのときに復旧に必要な要素は毎度同じなのです。であれば、大地震の瞬間にDMATが出動するように、国からも被災対応のプロが出動し、地震当日にも被災自治体で緊急体制を組むようにすべきだと思うのです。支援物資の受け入れも、全国の自治体に対し、「今、何が必要か」を絶えず情報発信し、充足されたものが過剰に送られなくてすむ体制が必要です。

まとめて5カ月分のブログを書くと長いなあ。まだ続きもあります。今日は花火事務局時代にお世話になった吉田直子さんから「いい加減に更新しなさいよ!」と言われたので、何はさておきブログ書きをしました。更新しましたよ~、直子さん(^_^)v。

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2011年6月17日 (金曜日)

地震と津波の惨状~小名浜の様子

3カ月も経ってしまいましたが、3月11日以降の小名浜の惨状について書いてみたいと思います。

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震災翌日、テレビは付いていましたが、固定電話、携帯電話、インターネットがつながらず、外部との連絡は非常に制約されていました。まずはまちの状況を確認しようと、娘を連れて小名浜のまちを歩いてきました。臨海部は立ち入りが制限されているところも多くありましたが、行ける範囲で見て歩きました。

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小名浜魚市場周辺は、ひどい被害でした。市場の前には大きな漁船が何隻も乗り上げていました。メガネトンネルの中には小舟が横たわっていました。小名浜を代表する鮮魚店の丸克商店さん、ウロコイチさんのお店が激しく破壊されていました。

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小名川には乗用車が沈んでいて、川のほとりに3台も4台も車が折り重なっていました。後で聞いたところによると、小名川はポンプ場があるのでそれを回り込んで津波が押し寄せ、川をさかのぼって諏訪神社の近くまで床上浸水があったようです。ポンプ場近くの料亭・一平さんは幸い、床上にまでは浸水しなかったそうで、お店の中は守られたようです。

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お世話になっているガソリンスタンド・カネマン石油さんに行ってみると、一瞬被害は少ないように見えたのですが、ブロック塀が丸ごと倒れていて、驚きました。

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埠頭地区を走る6車線の産業道路は亀裂や段差が随所にあり、車がまっすぐに走れないほど色々なものが散乱していました。ここが道路だとは思えないほど泥が蓄積し、車線もまったく分かりません。津波で流されたタイヤ、プレハブ、自動車、ジェットスキー、コンテナ、東港建設のための鋼管杭を積んだ巨大な台船など様々なものが道路をふさいでいます。

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我々が10年以上かけて作り上げてきた小名浜港のにぎわい空間・アクアマリンパークは、アクアマリンふくしま、いわき・ら・ら・ミュウ、小名浜美食ホテル、小名浜潮目交流館のいずれもが大きな被害を受けました。アクアマリンは電気がストップしたため海水のろ過が出来なくなり、セイウチなどの海獣以外はほとんどのサカナが死滅したと聞いています。ら・ら・ミュウは建物に入れないほど中はグチャグチャになっていました。売り物の鮮魚店は冷蔵設備などが完全に破壊されていました。潮目交流館は3月12日に行う予定だった展示会のためにテレビや冷蔵庫などの家電製品が用意されていましたが、すべてが津波にやられて商品としては使えないような状態でした。美食ホテルも1階は見る影もない姿に化していました。

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港の前のコンビニはガラス窓が大きく突き破られていて、言葉も出ないほど破壊し尽くされていました。

古湊地区には私の実家や親戚が何軒かありますが、床上浸水したところ、床下浸水だったところ、浸水しなかったところと色々です。ふだん生活していてそれほど気にならない地面の高低差が被害の有無を分けていました。

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娘の通う小学校は避難所になっていて、体育館に近所の人たちがいらっしゃいました。旧知の方々も何人かいて、避難の様子などをうかがいました。校長先生はじめ先生方も集まっていて、対応に追われていました。

国土地理院の津波被害状況のデータを見ると、三陸や石巻などに比べ、いわき市の津波被害はエリアがかなり限定されていて、海から道路数本ぐらいまでのところが被害を受けています。少し内陸に入るともう津波の跡は見られないのですが、被害を受けたところは悲惨な状況です。

何十年か前に小名浜にも津波が来たことがあると聞いたことがありましたが、ここまでの津波がこのまちを襲うなど、思いもよらないことでした。

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2011年5月25日 (水曜日)

2011年3月11日

Xsc110312_029忌むべきあの日からあっという間に2カ月半、75日が過ぎました。最後にこのブログを更新したのが3月10日。その日まではこんなことが起こるなんて想像もしていませんでした。

被災された皆様には、心からお見舞い申し上げます。

3月11日は夜、自宅でちょっとした集まりを持つ予定で、その時間が近づいてきたのが気になり出していました。そしたら、日本の歴史を変えた14時46分。職場で突然、巨大な地震。思いのほか慌てはしませんでしたが、すさまじい揺れが、しかも長い時間続いたので驚きました。

Xsc110311_017経理の棚があっという間に倒れ、観音開きの扉が壊れてしまいました。私の横の書棚も崩れそうだったので、それを手で押さえ、揺れの収まりを待ちました。

通信は途絶。携帯は電話もメールもつながらなくなりました。どこが震源でどのぐらいの規模なのかも分かりませんでしたが、社員の持っているワンセグとカーラジオで少しずつ情報が入るようになりました。女子社員の中には泣き出す者もいて、みんなの家族の安否が気になりました。

Xsc110311_024倉庫の中はガチャガチャ。棚が倒れ、商品が散乱してしまいました。当社は鉄やステンレス製の商品が多いので、地震のとき倉庫にいたら、大けがをしていたところでした。

道路はあっという間に大渋滞。みな、海からの避難と自宅に向かう車列だったろうと思います。当社も海から近い場所にありますので、津波の襲来が心配されました。会社に留まるのがいいのか、山の方に逃げるべきなのか、時間がかかっても自宅に向かうべきなのか、情報が乏しく判断に迷うところでしたが、社員一同いったんは山の方に向かい、歩いて避難しました。

そのとき藤原川を渡りましたが、津波が来る様子はありませんでした。が、緊急配備した警察の方に伺うと、津波はすでに到達していたとのこと。よく見ると小舟が岸に乗り上げていたり、被害の跡を見ることが出来ました。このときはまだ、各地ですさまじい津波被害が起こっていることなど知る由もありませんでした。

Xsc110311_033その後の余震も落ち着いた感があったので、しばらくして会社に戻り、夕方5時か6時だったでしょうか、帰宅の途に付きました。自宅集会への参加を呼びかけた方々への連絡も出来ませんでしたが、一番の関係者とは何とか携帯がつながり、今日の中止を確認しました。

帰宅にどれだけの時間がかかるか分かりませんでしたので、帰るルートを考えましたが、6号バイパスは大渋滞でしたので、あえて海側の産業道路方面に行ってみました。しかし、すでに道路は冠水し、海になっていました。一帯が不気味な漆黒に包まれていました。後から知ったことでしたが、小名浜にも夜、津波の第2波、第3波が襲い、それが第1波より大きかったというのですから、こんなときに海方面には行かない方がよかったと、今にして思います。

致し方なく、大原を通るルートで自宅に。ふだんよりは車が多く通っていましたが、それほどの時間をかけずに戻ることが出来ました。道路はすでにボコボコに隆起や陥没していました。

自宅に着いてようやく、家族の安否を確認。長女が平の学校から戻っていません。今どこにいるのか? 学校にいるのか? 戻る途中のバスの中なのか? その確認も取れません。とりあえず学校に向かおうと、車を走らせました。住吉あたりでたまたま娘に電話がつながり、学校にいることを確認しました。バイパスを避け、海沿いの道を通ろうと思いましたが、途中で通行止め。このとき豊間方面は津波の甚大な被害を受けていたのです。私は鹿島街道に出て、そこから北上しました。

学校では担任の先生なども待機してくださっていて、娘を守ってくれていました。ほとんどの生徒はすでに帰宅した後で、娘をようやく連れ帰ることが出来ました。

幸い、電気だけはついていましたので、まっ暗闇での夜は避けることが出来ましたが、こうして長い1日が終わりました。そしてそれは、それからの長い復興の道のりの、ほんの始まりだったのです。

※震災後、色々なことがありましたが、振り返りながら少しずつUPしてみようと思っております。

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