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2007年2月13日 (火曜日)

近代産業遺産を求めて〈八茎鉱山〉

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先日、いわきヘリテージツーリズム協議会という会ができた。私もいつの間にか会員になっていた。グリーンツーリズムやブルーツーリズムは有名だが、ヘリテージツーリズムとは何か。グリーン~は農村を舞台にした滞在型の新しい観光の形。ブルー~は漁村、そしてヘリテージ~は近代産業遺産が舞台。日本の制度上、江戸時代までの遺産は文化財なのだが、明治以降の遺産はこれまで文化財と見なされず、保存も十分されてこなかった。しかし、八幡製鉄所や富岡製糸場など歴史の教科書に出てくるようなものを「文化財」として認識しよう、というのが「ヘリテージ」だ。まちづくりの視点から言うと、時代に取り残された過去の産業遺構を「これは文化遺産です」と言い換えることにより、観光資源に早変わりすることになる。いわきの場合、炭鉱遺跡などをヘリテージとして新たな観光資源にしよう、というのが冒頭の会の趣旨である。
http://www.iwaki-minpo.co.jp/scripts/news.pl?date=2007-1-15

ちょっと前置きが長かったかな。本日はこの会のいわば最初の活動、いわきのヘリテージ探訪が行われ、八茎(やぐき)銅山といわき三大薬師の見学をした。総勢60人あまり。我が家は家族5人で参加した。

Xmg_5367Xmg_5369八茎鉱山って、皆さんご存じだろうか? 私はこの会で初めて知った。四倉の奥、大変な山の中にある。鉱脈の発見は1625(寛永2)年頃、時の平藩主・内藤政長公により開発が進められた。が、銅の製錬のために広域に渡り森林が伐採された結果、水害が起こるなどして50年ほどで閉山。採掘は1900(明治33)年に再開し、1925(大正14)年に再び閉山。ん~、これではいわき市民が知らないのも当然だなあ。ただ、採掘していた当時は日本有数の銅山だったそうだし、その後もタングステンや石灰石の採掘が行われてきた。タングステンの生産量は割と最近まで日本一だったそうだ(現在は採掘していない)。石灰石は今も採掘されている。採掘を行っている会社は新八茎鉱山株式会社といって、どうやら新日鉄の系列の会社らしい。

Xmg_5372Xmg_5374採掘されていた現場までは未舗装、ガードレールもない大変危なっかしい山道で、ちょっとハンドルを切り間違えると谷に転落しそうなスリルに満ちている。到着したところにトンネルがあり、入口に「320ML通洞坑」とある。Xmg_5379今は入れないが、トロッコなどでこの中を進み、採掘現場に行ったのだろう。その距離が320㍍ということか。他に、湧き水をくみ上げるためのレンガ造りのコンプレッサー室、何らかの建物の跡と見られるレンガの壁、採掘した残りかすの中に散見する銅を含んだ石、ざくろ石など、鉱山跡の趣が感じられる。

Xmg_5381鉱石がそれほど好きなわけではないが、こうしたものがとても好きな人が世の中にいることは何となく知っている。そうした地学好きにとって、八茎鉱山はこたえられない場所らしい。地学的に言うとここは阿武隈山地東縁部に位置し、釜石と並び日本を代表する接触交代鉱床なのだそうだ。ん~、なんのこっちゃ。「古生層の石灰岩・粘板岩に貫入した金属成分に富むマグマ(石英閃緑岩)が石灰岩と高温で反応し、鉄、銅、タングステンなどを含むいわゆるスカルン鉱床が形成された」とあるサイトにある。分かります? とにかくこうした豊かな鉱床が生まれたのには、それなりの理由があるということね。上記のサイトには「2次鉱物好きにはたまらない産地です」とある。私にはまだこの辺の面白さが分からないが、是非分かる方にガイドしていただきたいものだ。参考までに、こんなサイトをどうぞ。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/mineralhunters/yaguki.html
http://members.jcom.home.ne.jp/tmtm555/AI26.htm
http://www.sekitankasekikan.or.jp/html/iishi.html
http://www.h-hagiya.com/es/yakuki1.htm

Xmg_5388Xmg_5384周辺部に目を移すと、大きく山肌が削り取られた露天掘りの現場、採掘の無事を祈ったであろう小さな神社、往時は2000人もの人々が住み子供たちを育てる場であった八茎分校跡(昭和38年閉鎖ということで、今は見る影もない林になっている)、今日は行けなかったが男滝、女滝のある逢瀬の滝など、面白い風景がいろいろある。Xmg_5390ヘリテージという観点からいうと、炭鉱同様、日本の近代産業を支えた歴史の跡が垣間見えるのである。銅山としての華やかな歴史はすでに過去のものになってしまったが、「遺産」として掘り起こす作業はけっこう面白い気がする。

Xmg_5397この日はほかに、八茎寺(はっけいじ)、薬王寺、波立寺(はりゅうじ)を見学。八茎寺と波立寺は閼伽井嶽と並びいわき三薬師に数えられる。Xmg_5399八茎寺には古い墓石が多く残されていた。そこには建立者の名が刻まれているのだが、例えばこんな風に書かれている。「加賀国住人 野村○○/親族一同/子分一同/義兄一同」。これは、亡くなった人が無縁仏にならないために、親族と合わせて「子分」やら「義兄」やらが名を連ねたということらしい。常磐炭砿には一攫千金を目指し各地から坑夫がやってきたと聞くが、この銅山も同様だったのだろうか。「加賀国」だもんなあ。

Xmg_5411薬王寺というのは八茎寺の別当だそうで、要は出先機関みたいなものかな。この薬王寺、古い時代は東北地方では真言宗最高の寺院として栄えたそうだ。が、戊辰戦争で多くを焼失(いろいろなところで「戊辰戦争で焼失」に出くわす。あの内戦が東北に与えたダメージは今なお続いているということか)。それでも残されたものの中に国や県の重要文化財があったり、石でできた卒塔婆(板碑いたび、石塔婆いしとば)という珍しいものがあったりして、かつての隆盛ぶりの一端を覗かせている。この石塔婆、あるものには「正應三年」とある。西暦1290年、鎌倉時代後期だ。そんな古いものが無造作に(といっては失礼だが)、道端に置いてある。誰かに教えてもらわないと、腰掛けてしまいそうだ。

Xmg_5422Xmg_5412本日、昼食は玉山鉱泉の藤屋旅館で親子丼を頂く。この旅館は築100年だそうで、入母屋造りのいい感じの建物。今度はゆっくりお風呂にでも入らせてもらいたい。Xmg_5424さらにさらに、波立寺に行く途中で古代官道の名残という田んぼも見た。要は古代、多賀城に向かった官道が、今は田んぼの区画として残っているということなのだ。いわきって、歴史のないまちと長年思ってきたが、最近は歴史の宝庫ではないかと思えるようになってきた。研究者の層もけっこう厚くて、面白い。

Xmg_5443あ、そうそう。今回NHKが取材に来ており、私がインタビューされてしまった。1年前のブログにはかまぼこづくり体験でNHKニュースに出た話を書いたが、どういうわけだろうか。毎年2月にNHK出演とは。来年もまた、何かあるかな?

「いわきヘリテージ実験ツーリズム」と題したこの企画、今年6回開催予定とのこと。次回は4月29日ということで、興味のある方はご参加あれ。

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コメント

別当というのは出先機関ではなくて本部です。
磐城三十三観音の資料には別当○○寺などと出てきます。お堂を所有したり管理しているお寺を別当寺などと言います。
昼食の座学の折に、お薬師様の周りには有効な鉱石や薬草があるという話をしていました。閼伽井嶽にはそれほど上質ではないそうですが、水晶の鉱床があると聞いたことがあります。閼伽井嶽薬師は通称で、正式には水晶山玉蔵院常福寺というはずです。今では智山派の別格本山になり格式の高い寺ですが、薬王寺の末寺であった時代もあるようです。
薬王寺からもう少し東に進んだところに恵日寺というのがあり、こちらは平将門の娘、滝夜叉姫の伝説のあるところです。滝夜叉姫所縁のお地蔵様がありましたが、残念ながら盗難にあったようです。

投稿: 若隠居 | 2007年2月14日 (水曜日) 09時57分

ああ、ご隠居様ありがとうございます。ご一緒したので伺えばよかったですね。当日の説明によると、八茎寺が山奥にあるので、まち中に移そうということで薬王寺を作ったということでしたが、別当が本部ということは、八茎寺の本部として薬王寺を作ってしまったということですか? 私の教養の限界でその辺のことをどう表現したらいいか分かりません。どのように説明するのが適切なのでしょうか? ご教示あれ。

投稿: 小野潤三 | 2007年2月14日 (水曜日) 10時17分

管理事務所と言った方が解りやすかったでしょうか。本部には経営本部という意味合いを含んだのですが。

元々は八茎岳薬師(八茎寺ではなくて八茎岳薬師堂)の別当として薬王寺が建てられたのではなかったでしょうか。八茎薬師は現在の位置よりももっともっと山頂のほうにあって、現在でもその遺跡が残っているようです。現在の薬王寺の本尊は国の重要文化財の文殊菩薩ですが、戊辰戦争で焼ける前の薬王寺の本尊は薬師如来で、この旧本尊が八茎薬師の御前立本尊の役割をしていたのではなかったでしょうか。ちなみに薬王とか医王という言葉は薬師如来を指します。確か江戸時代に入る前に堂塔を整え八茎寺を中興したのは薬王寺の僧侶だったと思います。詳しくは「いわきの寺」などを読んでみて下さい。

余計な書き込みをしてしまったようで申し訳ありませんでした。

投稿: 若隠居 | 2007年2月15日 (木曜日) 09時41分

「いわきの寺」ね。ありがとうございます。つくづく思いますが、いわきの小中学校で郷土史をもっと詳しくやるべきですよね。特に、現在残っている建物や自然、文化などの歴史をひもとくような場がもっともっとあって然るべきなのでは? それが郷土への愛着につながり、ひいてはまちを活性化する根底の力になるように思います。いわきJCの「まちづくりビジョン」には書いておいたのですが、もうみんな忘れちゃったかなあ(T_T)。

投稿: 小野潤三 | 2007年2月15日 (木曜日) 11時03分

>つくづく思いますが、いわきの小中学校で郷土史をもっと詳しくやるべきですよね。特に、現在残っている建物や自然、文化などの歴史をひもとくような場がもっともっとあって然るべきなのでは? それが郷土への愛着につながり、ひいてはまちを活性化する根底の力になるように思います。いわきJCの「まちづくりビジョン」には書いておいたのですが、もうみんな忘れちゃったかなあ(T_T)。

忘れてませんよ~潤三さん!
まったく同感です。
一般授業の他に、地域学というのを週3時間追加するように県の教育委員の委員長に話しておきますから!!
講師はいわきには山ほどいるのだから。
その時は潤三さんも講師をやること!

投稿: 里見喜生@古滝屋 | 2007年2月23日 (金曜日) 21時12分

管理人様初めまして。私は、八茎寺(以下お寺)の前住職の孫の者です。
このようにお寺を紹介していただき感激している所存です。
このお寺には 滝不動が二箇所あり、ひとつは紹介にも有りました逢瀬滝(上が男滝、下が女滝と聞いています。)もうひとつは、お墓から約100mほど北のカーブ附近から林道に入りお稲荷様の祠の前を通り峠をひとつ越え川原を登った(徒歩40分位)所に八茎嶽瀧不動尊(私達は表の滝(因みに逢瀬滝は裏の滝)と言っています。)があります。
行くと分かりますが、ここでは不動明王の剣((利剣)鉄板をくりぬいただけの簡単な手作りの物ですが。)を納める風習が有ります。
また、薬師堂の裏に炭焼きの跡が有るとも、祖父(前住職)が鉱山分校の教師兼務していたと聞かされています。
私は愛知県在住なのでなかなかいけませんが今年のお盆は祖母の七回忌をかねて行きますので何かありましたらご報告させていただきたいと思います。
最後に、紹介していただき本当に、有難うございました。

投稿: 磐城  | 2009年7月31日 (金曜日) 21時34分

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