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2006年3月12日 (日曜日)

戊辰戦争の傷跡〈二ツ橋・仙臺藩戦死者之碑〉

XMG_0814藤原川にかかる小名浜の二ツ橋近くに戊辰戦争の碑があると聞いて、行ってみた。どこだか少し迷ったが、やっと見つける。今まで数え切れないぐらい通った道だったが、こんな碑があるのに気づかなかった。

XMG_0819 XMG_0810 中央に高い石碑があり、「仙臺藩戦死者之碑」とある。右側に小さな石碑「戊辰役戦没者/仙臺藩士/為大内進冥福/皇紀二千六百年七月十三日」とある。左側には「忠臣戦死墓」かな? よく読めない。更にその左に「戊辰役戦死者の碑/昭和四十三年六月二十九日」とある。皇紀2600年といえば昭和15年。これらの碑が最初いつ建立されたのか、これまでどのように守られているか分からないが、戊辰役から多くの時間が流れても地域の記憶に留められているのが分かる。

戊辰戦争は東北に大きな傷跡を残した。白虎隊の悲劇もあったし、会津は今でも長州とのわだかまりを残している。会津鶴ヶ城は再建されたが、磐城平城は戊辰戦争で焼失して以後再建されていない。この碑が建っている二ツ橋での戦闘があった時、小名浜古湊の代官所も焼かれ、当時の資料はほとんど残っていない。私は小学校から中学校の9年間、「御陣屋跡」の碑の横を通って学校に通っていたが、それが何を意味するのか分かっていなかった。この辺には「御殿後(ごてんご)」という地名があり、変な地名だと思っていたが、今にして思えば代官所の後方ということだったのだろう。いわきに江戸時代以前の歴史の面影が感じられないことの一因はこうしたいくさによってそれまでのものが消え去ってしまったことと、歴史を語り継いでこなかったいわきの市民性があったと思う。

二ツ橋の戦闘では、泉城奪還のために中之作から上陸した仙台藩士が小名浜を経由してこの場所まで来たとき新政府軍の激しい銃撃にあい、30数名が亡くなったのだという。ふだん行き来している場所が、往時は新時代をめぐる命がけの戦闘の場であったかと思うと、今までにない感慨が迫ってきた。地域の歴史を知る大切さを知った思いだ。

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コメント

俗に言う賊軍の戦没者は戊辰戦争の後遺骸を葬ることすらままらなかったのだそうです。一方で官軍の命により、官軍の戦没者の埋葬地と墓石は詳細に官軍側に報告され、手厚い供養を命じられたとも聞いています。今、何かと話題になっている靖国神社の起源はこの戊辰戦争での官軍の霊を祀る事に起源を有してもいるのです。
昨年平安会という旧藩の会で新地を訪れた折、戦跡で地元の歴史家から話を聞きました。新地の戦跡をはじめ各地に供養塔を建立することが許されたのは戊辰戦争後二十三回忌のあたりからだそうです。

平の古鍛冶町に良善寺という浄土宗の寺院があります。この寺は旧藩主安藤家の菩提寺であり、安藤家歴代の墓域の後方に戊辰戦争で命を落とした藩士54名の墓が市内一円、遠くは仙台から移設されて、毎年8月11日(平城落城の日)に平安会にて供養が続けられております。

投稿: 平の若隠居 | 2006年3月13日 (月曜日) 08時38分

もう一つ。平藩は戊辰戦争後も平に居続けることができました。映画「北の零年」のような辛酸を味わうことなく、多額ではありましたが賠償金を支払うことで済んだのです。これは最後の平藩主安藤信勇公のおかげでもあるのです。一つの考え方として、安藤家を守るために旧藩士が率先して官軍に服従を誓い、城を崩し、堀を埋め、過去に口をつぐんだとも言えるのです。同時に、その一方で、この歴史の大きな転換期に「商才」の陰に埋もれてしまったのが、過去のいわきの歴史なのかもしれません。

投稿: 平の若隠居 | 2006年3月13日 (月曜日) 09時55分

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